ことば

2006-10-20

違うものになろうと(ピアソラ)

アストル・ピアソラの言葉:

人生において失敗する人に共通することは、
そうやって違うものに“なろう”とする人たちだと思う。
人はそれぞれが違いを持って生まれてくる。
既に違っているのに、違うものに“なろう”とする必要はないんだ。

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2006-09-05

ゴドフリー・レジオ

映画を観ることに理由などいらない。
映画は旅であり、
目的は旅をすることで
行き着く場所ではないからだ。

DVDで『コヤニスカッティ』(KOYAANISQATSI )という映画を観た。

1982年に作られたナレーションの一切ない実験的なドキュメンタリー映画。その大胆な映像スタイルは、その後多くの映像作家に模倣、消費されていったのだろう。直接・間接的に影響を受けた作品群をすでに見ているために、オリジナルを今見ても驚き・衝撃まではいかない。フィリップ・グラスによる音楽は好みだけれど、中盤以降はちょっと画面に集中できなくなった。

興味深かったのが、監督であるゴドフリー・レジオが作品を振り返る映像。冒頭の言葉は彼のものだ。

彼は映画業界にいたのではなく、The Institute for Regional Education というある種の教育・広報組織に携っていた。多くの人にメッセージを効果的に伝えるメディアとして、そのときは映画という手段を使ったということのようだ。この作品への関わり方としては思想的な面が中心であって、革新的だった映像を生み出したのは撮影・編集を担当したロン・フリック(Ron Fricke)だったと述べている。

現代社会について強いメッセージ(あるいは質問)を投げかけるこの作品に、言葉は使われていない。彼はこんなことを言っている。

私が思うに、言葉は今、きわめて屈辱的な状態にあり、もはや社会を表現(describe)していない。

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2006-07-02

労働意欲について

昨日、『ココシリ』という映画を観た。映画は素晴らしいものだったが、それはそれとして、最近(ここ数年)わざわざ映画館まで観に行く(シリアスな)映画の傾向として、「物理的または社会的に苛烈な環境の中で主人公(たち)がなにごとかを成し遂げる」というパターンがあることに気づいた。たとえば『戦場のフォトグラファー』、『運命を分けたザイル』、『ホテル・ルワンダ』、『グッドナイト&グッドラック』などなど…。

“100%のエネルギーを出し尽くして目的を達成しようとする”姿が、今の自分の(相対的に)ぬるい生活・活動から見て、あこがれる姿になっているのだろう。自分に、そういう生き方をする「覚悟」があるかというと、違うのだが。

そこそこに安定した、安全に思える社会。その中で生きるというのはどういうことなのか。アメリカの20世紀の哲学者エリック・ホッファーは、自らの日記(のちに『波止場日記』としてまとめられた)の中で以下のようなことを書いている(1959年2月)。 すべてが腑に落ちるわけではないけれど、なにか心にひっかかる。

… 労働意欲の問題が頭を占めている。大衆のエネルギー源としての自由、人々をつねに前進させるいらだちとしての個人の孤立、という私の説明は十分満足のいくものではない。これらは原因として妥当ではあるが、主要なものではない。たとえば、生活水準の低い社会より高い社会の方が労働意欲が旺盛だという事実がある。人間には、必要なもののためより不必要なもののために努力し働こうとする気持ちが強い。明敏で・迷いがなく・冷静な人間は、必要なものが適度に満たされさえすれば、ひきつづき働こうとはしないだろう。不必要なものをつくろうとしない社会は、必要なものの欠乏には終止符を打つかもしれない。労働意欲はささいな動機、疑問に思われるような動機から生じる。第二次世界大戦直後のポール・アンリ・スパークの言葉が思い出される。再建と復興という巨大な事業を遂行するエネルギーをベルギーの労働者から引き出すために、商店を品物で埋めつくし、以前人々の身についていた「ぜいたくと悪徳」をすべて動員して、人々をじらさなければならなかった、と彼は言っている。アトリー - すぐれた社会主義者、だが小政治家 - は、当時イギリスにおいて「社会主義的厳格さ」という政策を実施した。活気のある社会は、玩具に心を寄せ、必要なもののためよりも不必要なもののために懸命に働く人々のつくる社会である。独善的なモラリストはこういう社会を非難するが、子どもと芸術家は必要なものより以上にぜいたくを必要とすることを頭に入れておくがよい。

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2006-02-15

試みをしたものなど、まだ… (ソロー)

19世紀アメリカの作家ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau)の言葉(『ウォールデン - 森の生活』より):

先例によって、人に何ができるのか判断してはいけない。試みをしたものなど、まだほんのわずかなのだ。これまでの失敗がどんなものでも、「悩むことなかれ、わが子よ、おまえが手をつけずに残したものを、誰がおまえにあてがうものか?」なのだ。

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2005-10-30

額ではなく顎で… (アラン)

フランスの哲学者アラン(Alain)の言葉(『教育論』より):

私は、人を評価したくなったときは、
額ではなく顎でその人たちを考察するのが習慣となっている。
結びつけたり計算したりする部分なんかではない。
それならいつでも間に合っているからである。
それではなくて、くわえ取ったらもう離さぬという部分である。

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2005-08-28

すべてが政治的行動になる… (ハスケル・ウェクスラー)

ハスケル・ウェクスラーの言葉(『マスターズ・オブ・ライト アメリカン・シネマの撮影監督たち』より):

私たちの文化は、消費中心主義や利潤追求や個人の利己的態度を“非政治的”なるものとして受容するようになっており、いっぽうで独立宣言の基本的な部分を政治的発言と見なすようにもなってしまっている。(だが、)私は人が社会的人間としてとる行動のすべてが政治的行動になると主張する。人の言葉もまた然りだ。

ハスケル・ウェクスラーは、撮影監督として『夜の大捜査線』、『カッコーの巣の上で』、『メイトワン - 1920』といった映画にかかわったほか、政治・社会問題に関わるドキュメンタリー映画・劇映画の監督もしている人物。(allcinema onlineにフィルモグラフィあり)

『マスターズ・オブ・ライト』は、ヴィットリオ・ストラーロやゴードン・ウィリスなど様々な撮影監督へのインタビュー集。技術的な面、撮影チームの人間関係、撮影監督としてのキャリアパスから芸術観までさまざまな要素が取り上げられており、今となっては若干内容が古いものの、今なお興味深い本だ。

ウェクスラーは、こんなことも言っている。

政治的非難に終始する映画は私は信じないし好きでもない。というのは、そういう映画は人に影響を与えることがないからだ。同意するものは気に入り、同意しないものは嫌う。何の役にも立たない。私は、他人に対する理解力を高めるようなものが好きなんだ。

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2005-08-09

自分の目を用いなければ… (ショーペンハウエル)

アルトゥル・ショーペンハウエル(Arthur Schopenhauer)の言葉(『読書について』より):

紙に書かれた思想は、砂に残った歩行者の足跡に過ぎない。
歩行者のたどった道は見える。
だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。

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2005-07-16

新しいものが… (ルイス・マクニース)

ルイス・マクニース(Louis MacNeice)の言葉:

新しいものが何ひとつないことを知っているがゆえに何事をも始めないのは、衒学的な詭弁―原罪だ。

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2005-05-31

ポート・ヒューロン声明

1962年のポート・ヒューロン声明から:

われわれは、一定の快適な条件下で育ってきた世代だ…
そして親の世代から受け継いだ世界になじめないでいる。

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2005-05-21

孤独は… (バルザック)

バルザックの言葉:

孤独は良いものだということを我々は認めざるを得ない。
けれどもまた、孤独は良いものだと話し合うことのできる誰か相手を持つことは一つの喜びである。

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