経済・政治・国際

2006-09-12

無菌包装の豆腐は買えません(でした)

Link Club Newsletter という雑誌の2006年8月号に 『日本の「豆腐」を世界の“Tofu”にした男』 という記事が載っていた。森永乳業の雲田康夫さんがアメリカで豆腐を売るために苦労・工夫を重ねる話だ。

興味深かったのがアメリカ進出の理由。今から20年以上も前、森永は豆腐の無菌包装パック技術を開発し、10カ月間新鮮さを保つことができる豆腐を実現したのだが、全国の豆腐業関係者はそれを脅威に感じ、全豆連が国会に働きかけた。結果として、中小企業分野調整法という法律が成立し、森永乳業は日本国内で豆腐を販売できなくなってしまった。アメリカ進出は、国内で販売できないがゆえの策だったわけだ。

参考: 中小企業分野調整法
参考: 大企業はラムネを作れない!? (エキサイトニュース)

(2006年10月22日 追記)
コメント欄で「売ってるよ」と教えていただいたので、調べてみた。森永乳業から、長期保存可能な「絹ごし とうふ」が国内でも販売されていることがわかりました。
森永から宅配サービスがあるほか、楽天市場などで通販もしている模様。

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2006-08-28

「世代会計」という概念

ひょんなことから 世代会計 という言葉を知った。少子高齢化と社会保障(公的年金など)を考える上で有用な概念のようだ。

世代会計(generational accounting)という概念は、アメリカの経済学者ローレンス・コトリコフ(Laurence J. Kotlikoff)が1992年に提唱したものだという。

 世代会計とは「現行の公共政策のもとで現在世代及び将来世代が現在から将来にかけて政府に支払うべき純納税額(支払い税額マイナス受取移転額)を直接計算するもの」と定義される。 つまり、言い換えると、「人々がそれぞれ生涯を通じて、政府にどれだけの負担をなし、政府からどれだけの受益を得るのか」という視点から財政のあり方を評価する仕組みのことなのである(ここでいう受益とは、警察・消防や公衆衛生などの公共サービス、道路サービスなど社会資本の提供するサービス、公的年金の給付、医療 等を指し、負担とは、税金、社会保険料、年金保険料等を指すものとされる)。
 世代会計の一番の特徴は、将来世代の負担に着目している点にある。
 政府債務残高は、その時点での債務をあらわしているにすぎないので、例えば、財政赤字の数値を変えずに現存世代に有利な政策を行うと、政府債務残高をみる限りでは、何の変化も生じない。しかし、世代会計でみると、こうした政策は、将来世代の負担が増大することになる。
 つまり、世代会計は、こうした形で、将来世代へのつけ回し政策の問題点を浮き彫りにすることが出来るのであって、この様に、将来に対する不確実性を払拭し、政府の財政状況を長期的に捉えなおすことが、世代会計の目的なのである。
(慶應義塾大学 麻生良文研究室 学生論文より

将来世代の負担を算出するのに様々な仮定が入らざるをえないことには注意しなければならない(そのあたりも上述の論文の中で述べられている)が、それでもなお、現在の社会保障政策もふくめた財政が未来にどういう影響をもたらすかを推し量るのに参考になる視点だと感じた。そこから見えるものは愉快なものではないかもしれないけれど。

日本銀行金融研究所の機関誌『金融研究』(1998年12月発行)に「世代会計の国際比較」という論文が載っており、以下のようにまとめられていた。

世代会計の基本的メッセージは、政府財政支出の負担者はゼロサム・ゲームを行っているということである。現存世代の人々が支払う額が少なければ、将来世代の人々の支払いは多くなる。
==
世界の主要産業大国 - 米国、日本、ドイツ - はすべて、世代政策において厳しい不均衡を抱えている。
==
(今後、大幅に政府の純サービス消費を削減しないかぎり、)将来の日本人は、政府の無策のおかげで現行の税率の2.5倍以上の税負担を負うことになるだろう。

(関連記事) 日本の国の借金と資産

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2006-07-22

パーム油の利用拡大

NHKのニュースで、「新日本石油とトヨタ自動車が、パーム油を原料にしたバイオ燃料を開発している」と放送されていた。

パーム油とは、ヤシ(アブラヤシ)の果実から採れる油で、食用のほか、化粧品や洗剤などの原料としても使われている。

以前、バイオ燃料について書いたが、パーム油もバイオディーゼルの原料になるのだろう。

ただ、パーム油の利用はよいことばかりでもないようだ。Newsweek日本版(2006.1.18)の記事「エコな油が森を殺す日」では、以下のような指摘がなされていた。

・マレーシアとインドネシアの二カ国で、パーム油の全生産量の八割以上
・ここ20年間で生産量は倍以上になった
・パームヤシの農園の多くは原生林を切り開いて拡大してきた
・マレーシア、インドネシア両国で、国立公園での不法伐採が問題になっている
『持続可能なパーム油のための円卓会議』という取り組みも始まった

関連: 「パーム油は環境にやさしい」と言わないで by 地球・人間環境フォーラム (ブログ「温暖化いろいろ」)

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2006-06-02

アジールはどこにある?

以前、中沢新一の『僕の叔父さん 網野善彦』という本のことをちらっと書いた

あの本の中で アジール (asyle) という概念について書いてある部分が記憶に残っている。アジールとは「世俗の権力やしがらみによる拘束が及ばない特別な場所、避難地」という意味(英語だと asylum あるいは sanctuary)だということだが、本の中では戦前の歴史学者・平泉澄による先駆的(だが最終的には近代国家の枠組みにとらわれてしまう)研究を紹介しており、ここが読みどころだった。

中沢新一はこんなことを書いている。

アジールは存在できない - それが現代人の「常識」である。その常識はメディアや教育や家庭をとおして、子供の頃から私たちの心に深くすり込まれている。今日の歴史学者とて、その例外ではない。

ふむ。たしかに子供の頃から、「国という何やらかっちりしたものが存在し、法(法律)というものによってやってはいけないことが決まっているのだ」というぼんやりした理解はあったように思う。いっぽう「国民が法律を決め、あるいは変えていけるのだ」ということは、たしかに学校では習うんだけど、実感としてその力を感じることはない。

現代の日本は統計的に「豊かな社会」でありながら同時に「多くの自殺者を出している社会」だけれど、それは精神的な苦しみの中で、その人なりの逃げ場(アジール)を見つけられていないということなのかもしれない。

それはさておき。
世界は広い。現代(あるいは近い過去)においても、「わしはやりたいようにやったるぜ」という乱暴な(進取の気性に富んだ?)ひとはいるもので、常識人から見たら喜劇的とも思える事態を色々ひきおこしているようだ。

・イギリス沖合の独立国? シーランド公国
作り損ねた国々
・太平洋にオレの島? 個人統治領

以上、世界飛び地領土研究会というサイトから。アジールとはちょっと違うかもしれないが、これらのようなスケール(の小ささ)だと 「アホやね~」と思いつつも、「個人の力でここまでできる」というハッタリというか、なんだか元気が出る感じがあるのが不思議だ。

いっぽう、よりスマートに「やりたいことをやる」のは多国籍企業だろうか…。 こちらは喜劇的というよりも悲劇的なのかもしれない(などと考えるのは、昨日、『ナイロビの蜂』を観たせいでもある)。

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2006-05-03

ぼんやりと憲法を

憲法記念日なので、憲法についてぼんやり考えた。

◆「護憲」という言葉は、今の自分には響かない。憲法は神様が授けてくれたものではなくて、ある時代の人間が考えて決めたものだから。原則論から言えば、憲法を変更するということはあっていい。

◆では近い将来の改憲に賛成なのか。いや、現時点では100%の反対だ。改憲を進めようとしている人たちの意図・哲学と、彼らが憲法を作る能力との両方に対して、まったく信頼ができない。残念だけど。

◆意図・哲学の部分については、違う見方をする人もいるだろう。まあ、人それぞれ。

◆だけど、能力については…。 国会の法律を作る能力でさえ、信頼に足るレベルか? いわんや憲法をや、などと考える。

◆ちなみに「今の憲法はアメリカ人に押しつけられたものだから…」という議論は、個人的にはどうでもいい。憲法が自分たちの生活にどういう影響をおよぼすかの方がはるかに重要であって、由来は二の次だ。

◆憲法が土台にあって、その上に法律がある。土台を変えるとなると、それが社会に及ぼすコストも当然大きなものになるだろう。そこまでして憲法を変えないといけない理由とは何だろう? 法律レベルで処理できない課題とは?

関連する記事: 立法府としての衆議院 (2005年9月)

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2006-02-19

偶像崇拝の禁止について

以前の記事(「タブー視されるイメージ」)に関連して。

昨年(2005年)、世田谷美術館で『イスラム美術展 - 宮殿とモスクの至宝』という展覧会があった。英国のVictoria and Albert Museum所蔵のイスラム美術コレクションの展示だったのだが、その展覧会のカタログの中に、イスラム教における「図像表現の問題」の解説があった。偶像崇拝がなぜ禁止されたのか、説明されている。

 イスラム教において、宗教的関連で生き物の図像を使用することは厳禁されている。これはコーランおよびムハンマドの教えが、口にすべからざるほど神聖なる唯一絶対神を奉じ、あらゆる形態の偶像崇拝を排撃したことに由来する。
 前イスラム時代の中東で一神教を説くものにとって問題となったのは、信者が神の偶像を神そのものと混同し、「彫像」や隕石など発見品を神格化することがままあったことである。ユダヤ教はモーゼの時代から彫像の崇拝を禁じており、イスラム教は、彫像崇拝禁止を再び制定化した。
 ゾロアスター教、キリスト教の両教においても、偶像崇拝は忌み嫌われた。イスラムの台頭のはるか以前にも、ゾロアスター教の信者が神殿における拝火を儀式化したのは、おそらく偶像崇拝を退けるためであった。しかしこの主義も実践上は貫徹することが難しかった。これはキリスト教も同様であり、8-9世紀のビザンティン帝国では、キリストや聖人の聖像崇拝が聖像禁止(イコノクラスム)問題に発展した。イスラムの隆盛がこの争議を触発したともとらえられる。結果的にこの論争は、二次元の「イコン」の採用により決着をみた。この「イコン」は、以降の東方正教会の特徴となっている。
(図像忌避の根拠について)
 イスラムにおける人物・動物の図像の禁止はコーランに明示されているわけではなく、その数節から推察されるものである。その大半はアブラハムに関わるものである。…
 … このコーランの戒律の意味するところを一般論から個別論へとさらに押し進めていったのは、預言者の言行録ハディースである。9世紀のハディースの編者ブハーリーは次の逸話を語っている。ムハンマドは祈祷中に妻アーイシャがその部屋の扉にかけた帳の生き物の図柄に気を紛らされた。アーイシャはそれを切り取り、座布団地にしてしまった。ムハンマドはもはや図像に紛らされないため満足した、と。
 ブハーリー編纂によるハディースの中には、もう少し断言的な箇所もある。ひとつは「画像や犬がいる家に天使は入らず」という箇所である。これらの章節に示される生き物の図像化の排斥は、初期イスラム時代以降、正統派の宗教的見解を形成してきており、この立場はイスラム教の異宗派間でも大きな相違はない。
(以上、『Palace and Mosque』 by Tim Stanley with Mariam Rosser-Owen and Stephen Vernoit より)

これで、少しは偶像崇拝の禁止について、少しイメージがつかめた気がする。「彫像そのものが崇拝される」ということについては、有史以前からの世界中の信仰の多くに見られるものだろう。仏教もその普及の過程で仏像その他を積極的に利用している。

また、(本筋とは関係ないが)前イスラム時代の中東で「隕石」が崇拝されていたというのも興味深い。上記の引用を読む限り、偶像崇拝禁止の当初の主眼は、「(平面上の)図像」よりも「立体物」にあったということか。

しかし、自らが信じる神や預言者などの重要人物を彫像によっても図像によっても表現できないというのは、その信仰を広めるにあたって大きなハンディキャップとなるようにも思える。「百聞は一見に如かず」と言うが、当初は偶像崇拝に批判的であったキリスト教が、やがてマリア像や宗教画を積極的に利用するようになるのも、それが信者の心をつかんだからだろう。それにもかかわらず、偶像崇拝を禁止したイスラム教がこれまで信者を増やしてきたことは、非常に興味深い。

※ 関連して、長沼伸一郎さんによる「映像メディアと偶像崇拝の論理」というコラム。偶像崇拝と、その禁止と、社会・経済との関係についての考察がある。

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2006-02-04

タブー視されるイメージ

許されないシンボル・イメージとは何だろう? それは常に文化に依存するのだろうか?

イスラム教の預言者ムハンマド(マホメット)の政治風刺画を、デンマークの新聞が掲載し、イスラム教諸国及び国内でも抗議のデモなどが起きている、というニュースを目にした。

最初に掲載されたのは昨年の九月らしい。その後、ヨーロッパの複数の新聞がその風刺画を掲載したこともあり、イスラム教徒の怒りを買っているという。

何が問題になっているのか。上記のブログによると、

イスラム教では、預言者ムハンマドの肖像を描くことは神にたいする冒涜だとされる。たとえ尊敬の念をこめての肖像でも、偶像崇拝に結びつく可能性があるため、許されないこと、とされている。

ということだ。

この「偶像崇拝の禁止」という概念、言葉では知っていても(日本社会の中で育ったものには)もうひとつピンとこない。

もっとも、米ABCのニュース番組『Nightline』(2006年2月8日)では、デンマーク在住?のイスラム教の聖職者アブ・ラバン師が 「ムハンマドを笑いのネタにしたことが一番の問題」 と語り、米ジョージタウン大学のイスラム教聖職者ヘンリー師も 「イスラム教徒は、ムハンマドが風刺画に描かれたことよりもむしろその描かれ方に腹を立てています。ムハンマドは血なまぐさいテロリストとして揶揄されました」 と説明しているので、風刺画の内容が自分たちの信仰を侮辱していると感じている面が強いようだ。(多くのイスラム教徒は問題の風刺画を見ておらず、伝聞で怒りが広まっているのだろう)


以下、今回の事件とは直接には関係ない考えごと。とりとめもなく。

現代の西欧の文化においては、新聞の風刺画における「表現の自由」はかなり広いと思える。Newsweekの漫画欄を見たところ、為政者(政治家)やイギリス王室の人々、俳優その他の著名人いずれもが(ときとして)相当に侮蔑的に描かれる。イラク・アブグレイブ刑務所での米兵のイラク人虐待にからんだ風刺漫画では、ラムズフェルド国防長官を「マルキ・ド・サドの本を抱え、SMの女王様の格好をした」姿で描いているほどだ。神様をネタに使った漫画も珍しくはないように思う。

現代の日本の場合は、天皇・皇族はまだタブーになっているのだろう(彼らを痛烈におちょくった風刺漫画を思い出せない)。イギリス王室とはかなり違いがある。

中世のヨーロッパにおいては、神やイエス・キリスト、あるいは教会に対する風刺は厳しく処罰されたのだろう。為政者に対するものも同様だっただろう。

現代の西欧においてはあまりイメージのタブーは無さそうだなぁ、と考えていてやっと思いついた。ひとつはナチスドイツが使っていたハーケンクロイツ(鉤十字)。これは単なる記号だけれど、激しい非難の対象となる。また、9・11のWTC崩壊の映像も(現時点では)タブーとして扱われているように思われる。

社会における「好ましくないイメージの規制」について考えてみると、映画に対する検閲・規制がある。アメリカにおいてはMPAA(アメリカ映画協会)が自主規制として数段階の規制を行なっているし、日本にも映倫(映画倫理協会)による自主規制がある。規制されるものとしては、暴力描写・性的な描写が中心だが、それ以外にもタブーはあるようだ。またそれらは社会の変化にしたがって変わってきている。

(追記) Newsweek日本版(2006.2.15)に、デンマーク紙「ユランズ・ポステン」(最初に風刺マンガを掲載した)の記者?フレミング・ローゼへのインタビュー記事が掲載されている。それによると、デンマークでは人種差別や神への冒涜が法律で禁じられているという。

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2005-12-06

日本の国の借金と資産

経済・政治なんかには「うとい」けれど、それでも国が借金しまくった状態になっていることくらいは知っている。ただ額が大きいやら、どういうからくりでそんなに借金が増えたのやらで、あまり実感はわかない。

そんなシロートが、「ふむふむ」と思った記事ふたつ。

ひとつは、今年5月に久米信行さんの「縁尋奇妙」メールを通じて知った、上田令子さんのブログの記事

谷垣財務大臣に発言して来ました!

この記事で「そーいや、そうだ」と思ったのは、国が資産を持っているということを意識してなかったな、ということ。借金を返すためには増税しかない、みたいな議論を当然と思っていたけど。

今現在のニッポンはこの貸借対照表の負債が膨れ上がってこれこそ首が回らないって状態になっております。それを「なんとかしよう、ならんのか!」ってのが本日の本当のお題だったわけであります。

で、ニッポンを年収600万円世帯(うちかい!?)が、にわかに返せない数千万円の借金ができてしまった状態と仮定します。「トイレットペーパーを再生紙に変えて、ビールを発泡酒に変えてコストを落として、夫の小遣いを減らしさらに残業してもらって家計簿を黒字にしてその分で借金を返そう!でも月額返済額も大きいしぃ、利息も入れたらとても返せなそうだから~(ё_ё)子ども(国民)たちに借金の肩代り(増税)してもらわなきゃならないかも~」という議論を延々と続けておったわけです。(たぶん)

で、このあくなきエンエンとした議論に対しお姐は
「チョットチョット!待ってよ!子どもの代に借金繰り越す前に、床の間にあるお軸は祖父の形見の狩野探幽ではないの?そこに無造作に飾ってある素描ももしかしたらピカソの若い時代のもの? そういやマンションも持ってますよね? 身寄りの無い叔母さんから相続した軽井沢の別荘もあるはず‥いまやレアモノと言われるホンダS600もこれまた、身寄りの無い伯父さんから生前贈与されたハズ。まずはそれらを売っぱらってから、親たるもの子どもに肩代わりを頼まないか?!」
と考えたわけです。

「なるほど、そう言われればそうだなあ」という感じ。経理・会計の知識がある人には当たり前のことかもしれないけれど。

で、最近読んだブログの記事に、国の資産についての言及(引用)があった。(ので上の記事を思い出した)

「大幅な政府資産整理には反対、日米の政府規模はほぼ同じ」(財務省事務次官、細川興一)
 (「余丁町散人(橋本尚幸)の隠居小屋 - Blog」より)

日経新聞によれば、日本の国の資産は2003年度末時点で695兆円(地方などを除く)。米国の資産は州政府を除いて150兆円(2004年9月末)。日本政府の資産額は米国政府が保有する資産の約4.6倍にもなる。いくら会計上の相違を強調して誤魔化そうとしても、日本国はその資産のたいへんなポーションを非効率な政府部門に委ねているという事実には変わりなく、さらには借金の実額が変わるわけではない。借金が多すぎる以上、政府部門の資産を縮小することしか解決の方法はあり得ない。

今、日本の借金は700兆円を越えているようだ(『日本の借金』時計他より)。

借金もスゴイが、国がため込んでいる(もちろん国を運営する上で必要なものもあるにせよ)資産も相当スゴイ。

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2005-12-02

ニッポンとニホン

以前から気になっていたことをメモ。

「日本」ってニッポンとも発音するしニホンとも発音する。そもそも国の名前の発音が(自国民にとって)ふたつあるというのも不思議な気がするが、何か経緯があるのだろうか?

NHKなどだと「ニッポン」と発音することが多いように思うが、一方で日本人は「ニホンジン」と発音しているような気も。

ググってみたら、以下のNHKのページが見つかった。

ことばの研究 ~ 「ニホン」か「ニッポン」か 「日本」の読み方の現在

国号「日本」の読み方は、公式に定められたものがありません。国レベルでは、昭和9(1934)年に当時の文部省臨時国語調査会が呼称統一案として「ニッポン」にすることを決議しましたが、政府で採択されず、正式な決定がないまま現在に至っています。

ということらしい。なんともあいまいな話だが、別に困っているわけでもないし、これも「日本的」といえるかも。

二種類の発音の由来?については、呉音・漢音の違いから来ているものと想像されるが、Web上には色々な説明があって決定打は見つからず。

ちなみにNHKでの使い分け基準はこちら

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2005-09-08

海外にいて投票するには? / サマワにいて投票するには?

外国にいる日本人が衆院選に投票したいときは?

在外選挙』(Wikipedia) によると、

海外で投票をするには、日本の在外公館で在外選挙人名簿へ登録することが必要がある。在外公館の管轄区域内に三ヶ月以上住所を有していることが登録条件である。選挙直前になって登録をしようとしても、その選挙に間に合わない可能性があるため、前もって登録をしておくことが必要である。

2005年現在のところ、在外選挙の対象は比例代表制に限られている。

とのこと。

もし、あなたがサマワにいる自衛官で、衆院選に投票したいときは?


できません。


時事通信(8月18日)によると、

イラクとクウェートに派遣されている陸・空自衛隊員約800人が、9月11日の衆院選で投票できないことが18日、分かった。

2003年に導入された期日前投票の制度もあるが、政府は7月、イラクに派遣された自衛隊員がサマワで期日前投票ができるかどうかについて、「公選法の規定は期日前投票所を国外に設けることを前提にしていない」とする答弁書を閣議決定した。

総務省は「自衛隊以外の海外滞在者とのバランスや、日本の主権が及ばない地域での投票手続きの確保など解決すべき課題は多い」としている。

別に自衛隊を特別扱いしろとは言わないけれど、海外在住者の選挙権を(日本国内在住者と同レベルに)守るべきではなかろうか。「一票の重み」の格差のはなしと言い、公平性を保つという『原則』が『手続き上の問題』に(あまりにも簡単に)負けている気がする。

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